シオドア・スタージョン『人間以上』

P-MODELが1993年に発表したアルバム『Big Body』に収録されている「HOMO GESTALT」という曲がある。この「ホモゲシュタルト」という意味が、当時は全く判らず、なんとなく、Homo sapiensとドイツ語のgestaltの造語っぽいものという認識でしかなかった。平沢の書く歌詞は難解で、字面から理解しようとしても不可能なものも多い。この「ホモゲシュタルト」もネットが普及してようやく、シオドア・スタージョンSF小説『人間以上』("MORE THAN HUMAN" 1953)に登場するものだと知る。



バンド関係の知り合いで、ゴトー&カメレオンズのゴトー氏と懇意にさせてもらっているのだが、氏は高校時代SF研究会に所属していて、そちら方面にも明るい。そこで、この作品について尋ねてみたところ、この世界ではかなり有名なものらしい。その一番の理由は、石ノ森章太郎の『サイボーグ009』が、この作品の設定をヒントに描かれたものだからだという。後述するが、体が成長しない天才的頭脳を持つ赤ちゃんと、言語を持たないこの赤ちゃんのテレパシーを唯一受け取り翻訳することのできる少女などが登場する。登場人物はそれぞれが人間以上の能力を持つが、逆に人間としては成り立たず、それぞれが苦悩を抱えて生きている、と、まあ、確かに009に通じるものがある。

さて本題。この作品、ゴリゴリの近未来SF小説と勝手に思い込んでいたのだが、読み始めてみると、そういった気配はほとんどない。むしろ、SF作品ではなくごく一般的な文学作品として捉えても非常に面白い。表現は緻密で、作品全体を一貫して覆っている雰囲気にも独特なものがある。SFというアウターを纏ってはいるがその範疇に収まり切れない、非常に文学性の高い作品といえよう。ただ、各章が別々に執筆されたという経緯から、全体的に見ると構成に難があるのは否めない。
最初は二人の姉妹とその父親の話だ。父親はこの姉妹を大きな屋敷と広大な敷地に幽閉し、外界との接触は完全に遮断されている。この父が求めているものは、姉妹を少女のままにとどめ、その楽園を未来永劫維持する事だが、無論、その妄想はあっさりと破綻する。妹はやがて性の萌芽を迎え、それを外界より感じ取った"白痴"なる男が、バリケードを突き破り接触に成功するが、妹は父に殺され、父も自害する。話はその後、物体を瞬時に移動させる能力を持つ少女や、瞬間移動が可能な黒人の双子の幼女(基本的に奇声しか発しない)、成長を全くしない赤ちゃん(ただし、頭脳は普通の人間を大きく上回る能力を持つ。)、そして、自由に相手の意志をコントロールできる少年(ただし、浮浪児として生活をしていた)が登場する。彼等は人間としては精神的、肉体的に大きな欠陥があり、社会ではまともに生きて行けない者たちだ。やがて彼等は出会い、そして、それぞれがそれを必然であると感じる。彼等は人間で例えれば完全体ではなく、ひとつのピースでしかない。全員が集まって、ようやく一つの人間として機能するのだ。しかも、ひとりひとりが、一般的な人間を遥かに超えた能力を持つのである。さて、これから先、彼らが悪の組織に立ち向かうために国家の秘密機構に雇われたり、地球防衛軍を組織したり、な〜んて展開は一切なく、やがて、白痴は死に、最後に彼に代わる人物が現れ、最終的には、この集合人=ホモゲシュタルトが、人間としてのモラルを獲得したところで物語は終わる。えっ?それだけ? そう、それだけの話。もちろん、小説としては色々な展開があるのだが、いわゆるSFチックなそれはほとんどない。しいて挙げるとすれば、赤ちゃんが設計した、溝に嵌ったトラクターを引っ張り上げる装置(そこらにある部品を使って白痴が作り上げたごく簡単なもので、レバーの上下で浮遊したり沈下したりする)が、世界の仕組みを根幹から揺るがしかねない大発明、即ち、反重力装置であった事くらいか。だが、これも、やはりこの作品の本質に係わるものではない。本質は、あくまでも人間の在り方なのだ。ひとりひとりが不完全であるからこそ、他人を尊重し、繋がる。それこそが人間を完全体に近づける唯一の方法なのだ。もっとも、これを別角度から解釈すれば、それは人類補完化計画みたいなものになってしまうんだろうけど…。



ところでこの作品、もう何十年もの間廃刊状態が続いている。発売元は早川書房だが、理由は恐らく、翻訳が古すぎて差別用語が満載されているからだろう。白痴、黒ん坊、モウコ病、等々、数え上げたらきりがない。そんなわけで、オクや中古市場を漁ってみても、価格がすごぶる高い! 状態の悪いものでも500円(+送料)くらいはざら。状態のいいブツなら信じられないほどの高値で取引されている。一時期、価格が下がると思い、暫く様子を見ていたが、一向にその気配がなく、仕方なく「可」を入手した次第だ。

ホムセで見つけたビートルズの『Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band』(税込み309円)を聴いてみる。

先日ホームセンターで時間を潰していた時の話。よく、ワゴンに本人歌唱、だとか、オリジナル音源、だとか銘打って、格安で並んでいるCDなんかを見かける。最近では、昔のディズニー映画がワンコイン(500円じゃなくて100円ね)で売っていたりする。そこで見つけてしまった!ビートルズの『Please Please Me』〜『Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band』の激安CDを。プラケもジャケもなく、ただの厚紙のCDケースに剥き出しのCD盤が入っているだけ。お値段はなんと税込み309円だ! これ、ビートルズのCDを持ってる人なら、正直必要ないもの。だよね、普通は。でも、普通じゃないのがマニアって事なんだろう。つまり、そこで、ここに収録されている音源って、一体何なんだろう?という疑問が湧いてしまったのです。つまり、もしもオリジナルのコピー品であったら、こんなに堂々とは売れないはず。しかもJASRACの文字まで印刷されている。確かに、量販店でビートルズのCDは見かける事はよくある。しかし、その殆どはごく初期の作品を使ったベスト盤で、記憶では、せいぜい『Rubber Soul』の作品くらいまで。もちろん、輸入品扱いで、日本語のジャケットであっても、外国でプレスされたものだ。だから、アルバムまるごとの商品が売られているのはちょいと異常。よって、ここに収録された音源は、オリジナルとは違うはず!という結論に至ったわけです。そういうわけで、買い物かごに中にはいつの間にかこの『Sgt』が入っていたというわけです。はい。『Sgt』を選んだ理由は特になく、しいて言うなら、聴き込みの度合いが割と高い、といったところかな。






さて、このブツ。とりあえずは聴いてみない事には始まらない。スピーカーから流れてきたその音は…あれ、これは最初にCD化されたものの音じゃない! もちろん、09リマスターの音でもない。それは、もう、相当聴き込んでますから、違う音だとすぐに判別できる。ただ、テイクは全く同じだ。ちょいとばかり謎が深まっていく。更に聴き進んでいくと、決定的なやつが出た。08.Within You,Without You.の最後、笑い声が入っていない! これは大ごとだ!何故って、自分の知識の中には、笑い声のカットされたバージョンなんて全くないから。すぐさまググってみるも、そんなバージョンは一向に見つからない。一旦諦めて、曲を聴き進めていくが、決定的なものはもうない様だ、と、思った瞬間、またしても凄いのが出た! 13.A Day In The Life. の最後、「犬のための音楽」とテープのコラージュ、一般的に「Sgt. Pepper Inner Groove」と呼ばれる部分が丸々カットされているではないか! そこで、このバージョンも調べてみると、なんと、キャピトル盤のLPには、このInnner Grooveは収録されていなかったのだそうだ。確かに、キャピトルがUKオリジナル盤と全く同じものを作ったのはSgtからだが、実際には、送ってもらったテープを使ってカッティングをしているわけで、この最後の部分を送り溝に収録するなんてのはかなり高度なテクを持ったカッティング・エンジニアじゃなきゃ無理というもの。そもそも、そういう指示があったのかも判らないし、この部分の音がはなからテープに収録されていなかった可能性だってある。でも、まあ、このカットされているLP盤が実際に存在していたという部分に於いては納得のできるものだった。しかし、謎なのはWithin You〜である。念のため、各音源を…すなわち、1987年盤と2009年盤ものをリプして、解析してみようと思ったのだが、そういえばリッピングソフトにはデータベースにアクセスしてファイル情報を取得するシステムが搭載されているので、それを使えば正体が判るはずだ! 因みにここのデータベースは曲数とタイムが合致し、かつ他のデータと曲名が著しく違わなければ、自己申告でも情報として登録されてしまうようで、必ずしも正しいデータが反映されているとは限らない。
結果、MFSL(モービル・フィデリティ・サウンド・ラボ)or Dr.Ebeetts。ただ、MFSLは、ビートルズではアナログ盤は存在しているが、CD盤は存在しないので、Dr.Ebbettsという事になるのか。では、このDr.Ebbettsなる盤はどういうものかというと、CDからリプしたファイルを独自にリマスターを施し、高音質盤CDとして勝手に販売している海賊盤ということらしい。MFSL盤とされるものは、この高音質に目を付けた他の業者が、MFSLの名を冠して売りに出したという事なんだろう。この背景には87年盤のCDの音質が次第に時代にそぐわなくなってしまい、マニアは高音質のCDを望んでいた。更に、87年盤では一部のアルバムでステレオ盤、モノラル盤が廃盤になってしまったという問題があった。最初はそれら廃盤となったアルバムを高音質でCD化したという経緯があり、その後、正規盤を上回る音質とされるCDが製品化されたのだろう。ただ、最後まで残ってしまったのが、Within You〜の問題だ。おそらく、相当なマニアが関わっての製品化であるだろうに、なぜ笑い声をカットしてしまったのだろう? 何か理由があるような気もするのだが、もうこれ以上の労力は無駄な様な気もする。
最後になるが、結局のところ、これは海賊盤である。しかも、Dr.Ebbettsをまるごとコピーしたものだ。パッケージの日本語表記からみて、企画製作は日本の会社と思われるが、MADE IN TAIWAN である。これは、著作権の抜け道の様な気もするが、とりあえず、JASRACの表記があるのだから、きちんと徴収はされているのかもしれないけど、そういう事に敏感な人は買わない方がいいでしょう。マニアはそういうところを超越しちゃってるので、話のタネとして買ってもいいかもしれません。正直、聴感上の音質は87年盤よりもいいかもしれません。また、他のアルバムにもオリジナルとの相違点があるかもしれませんが、個人的にはもういいですw 以上。

今年も咲いたよヒメスイレン 2018

水が干上がりそうになったら満たしてあげる、って程度で、相変わらず何の手入れもしていないが、今年も咲いたよヒメスイレン。ついでにヒメダカも冬を越した模様。もしかすると、この時期に産卵しているのかもしれないが、あくまでも手は掛けずに、という方針。ボウフラは大きすぎて食べられないと思うが、卵くらいは食べてるのかなあ?

大原麗子がラベルの『麗の雫』(ウイスキー)を買ってみた

けど、飲んではいない(笑)。
一般的にウイスキーは、高級になるほどアルコール度数も高い傾向にある。700円を切るような安いウイスキーは、大抵が37度で、個人的には年間を通じてもあまり口にすることのないものだ。要するに、口にする前から、中身は大体想像できる。やけに水っぽくて、カラメルで色付けしたあれだ。だから、酒屋でこれを見つけた時、アルコール度数に不釣り合いなその価格に驚きもした。なにしろ、37度で1,000円(大特価らしい)もする。ただ、それでもかなり珍しいものだから、モノの話に一本買ってみようか、と相成ったわけだ。


『麗の雫』。決して洗練されたデザインというワケじゃないが、インパクトは十分ある。

このウイスキーは「南アルプスワインアンドビバレッジ」というメーカーから販売されているもので、最近スーパーや量販店でみかける『蜂角鷹』(はちくま)もここの製品である。蜂角鷹は37度で、トリスやクリアブラック辺りと同じ安い価格帯にぶつけてきた商品で、要するに大した事のない酒、という事になる。そして、この『麗の雫』も37度。これはもう飲むまでもない、のである。つまり、この商品の強気の価格設定はラベルに対する付加価値であると言えよう。だから、開けないで飾っておくのが正しい。


『蜂角鷹』(はちくま)。こちらは飲んでみたが、大体トリスっぽい(笑)。

因みに『麗の雫』の価格をネットで調べてみると、1,400円近い値段で売られていて、これは一般的な37度のウイスキーの倍近い。写真のライセンス料に幾らくらい掛かっているか、な〜んて考えるのは野暮というものだが、まあ、それも含めての価格という事なんだろう。それにしても、どの世界にもアイデアマンというやつがいるもんだ。
「すこし愛して、ながーく愛して」はサントリー・レッドのCMだったが、それは誰の頭からも永遠に消えないコピーなんだろう。可愛らしい女優さんだった。

シリア・ポールの『夢で逢えたら VOX』にやっと逢えた。

生粋のナイアガラーである。と言いたいところだが、違う。んじゃあ、やっぱり『ロンバケ』から入ったクチ? と訊かれて、もちろん!と言いたいところだが、それも違う。自分でもはっきりとしないのだが、徐々にナイアガラの深淵に足を踏み入れて行ったというのが本当のところかもしれない。ナイアガラ関連のレコードやCDは、一部を除けば基本的に全てレアアイテムで、永らく廃盤であったアルバムがリイシューされたとしても、オリジナルと全く同じものが再発されることはまずないのである。実は、そういった希少性こそがナイアガラーの本質であったりもする。
シリア・ポールは自分にとっては、ちょっと年上のお姉さんどころか、そうとう年上の女性であるのだが、彼女が初代パンチ・ガール(ニッポン放送のラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のパーソナリティで、"モコ・ビーバー・オリーブ"のうちのオリーブがシリア・ポール)であった事など、当時小学生であった自分にとっては全く知る由もなかった。ただ、自分がリアルタイムで体験したパンチ・ガールのパーソナリティのひとりが松田聖子であった事は、何か運命的なものを感じずにはいられない。
街中から「君は天然色」が流れていた頃の、土曜の昼下がり。この当時、お茶の水辺りの中古レコード屋と楽器屋を延々と渡り歩き、へとへとになって辿り着いたドーナッツ屋から流れる「ダイヤトーン・ポップス・ベスト10」を聴きながらお茶をするのが定番になっていた。この番組は彼女がパーソナリティを務めていたのだ。しかし、この時は自分の中で彼女とナイアガラは全く結び付いておらず、アルバム『夢で逢えたら』という作品すら知らずにいた。ただ、「夢で逢えたら」という曲の知識なんぞは全くなかったのにも関わらず、頭の中で流れるのは、オリジナルであるはずの吉田美奈子吉田保実妹)のバージョンではなく、必ずシリア・ポールのバージョンだったのは、一体どういうわけだったんだろう…?



さて本題。遂に発売になったシリア・ポールの『夢で逢えたら VOX』であるが、内容はアナログ盤LPが2枚、EPが2枚。CDが4枚と、ブックレットが付属する。
このうち、4枚のCD音源は以下の通りで、全て最新リマスターである。

DISC-1 1977 Original Album + Single (CBS SONY, Sound City & Freedom MIX)
DISC-2 ONKIO HAUS MIX
DISC-3 1986 Tamotsu Yoshida Re-MIX
DISC-4 Rarities (Live + Karaoke + Out Takes + CM)

ここでは、個々の音源や楽曲に対する詳しい解説はオミットするが、内容だけをざっと紹介してみる。
DISC-1はオリジナルのLPと同じもの。
DISC-2はオリジナルマスターが完成する前、ONKIO HAUSでミックスされたもの。大滝はこのミックスが気に入らず(音が重すぎるという理由)お蔵入りとなったもので、完全未発表である。
DISC-3は1987年にナイアガラ関連のアルバムがリイシューされた際に、吉田保によってリミックスされたバージョンだ。
DISC-4は1977年6月20日渋谷公会堂で行われた「The First Niagara Tour」のライブ音源と、その他レア音源集である。
このうち、自分が最も聴きたかったのはDISC-3の87年発売の吉田保によるリミックス盤だ。というのも、この音源はレンタル店で借りたものをカセットにコピーしてよく聴いていたからだ。だが、カセットがダメになり、永らく聴けずにいたからである。その後、97年にリイシューされたCD(DISC-1と同じ音源)を聴いても何かピンと来なかったのは、やはりこの盤が自分の耳に一番馴染んでいたからだろう。この吉田保リミックスは、オリジナルに比べエコー深めで、当時の大滝=ウォール・オブ・サウンドというイメージを意識したものかもしれないが、大滝が一部作品において、ボーカルを極端に埋没させるような手法を取ったのに対し、もうちょっと、一般的に許容される範囲でミックスした感がある。大滝曰く、せっかくリイシュ−するのだからCDっぽい音にしたかった、のだそうだが、基本的にはリイシューのリストに絶対に載らないバージョンでもある(VOX等の企画盤を除く)。ただし、大滝は吉田保に対しては絶対の信頼を寄せていたのもまた事実である。とりあえず、この盤が聴けて、長年の留飲が下がった思いだ。



しかしこのボックス、いろいろと不満な点もある。例えば価格設定だが、何故か強気の2万円(税抜き)。にも拘わらず、LPのジャケットが貧弱だったり帯が再現されていなかったりする。ブックレットも内容的には良いが、作りは薄っぺらい中綴じ。やはり、ここはハードカバーで堅牢な装丁にしてほしかったところ。音源に対してはほぼ満足だが、3,000円(税抜き)の通常盤でこのボックスのDISC-1,2の本編+DISC-4のライブ全曲が聴けてしまうのもなんだかなあと思う。残りのDISC-3と各ボーナス曲、アナログ盤、そしてブックレットと化粧箱で計1万7千円と考えると、む〜ん、と唸ってしまう。まあ、アナログLPも重量盤なので値が張るのは確かだが、ここまでの価格差が出るとは思えない。コレクターズ・アイテムなんで、どうしても重箱の隅を突きたくなってしまうが、やはり2万という価格ならば、それなりのものを期待してしまうのは、至極あたりまえのことだと思うのだ。





最後になるが、このアルバムとぜひ併せて聴いてもらいたいのが、前述のモコ・ビーバー・オリーブの『わすれたいのに』である。内容はアメリカン・ガールズ・ポップスのカバーがメインで、これを聴けば、大滝がなぜ彼女をナイアガラ女性歌手として選んだのかがよく判る。


因みに、近日、ユニバーサルから1枚千円という廉価でリイシューされるが(UPCY-9745 )、こちら(CDSOL-1760)はコロムビアから発売されたシングルを含む+7となっているので、注意が必要だ。

YesのSACD『サード・アルバム』を聴く

以前『海洋地形学の物語』のSACDの記事を書いたんだが、そのSACDの希少性(要するに限定盤)に危機感を覚え、結局『こわれもの』『危機』『リレイヤー』も購入したんだが、音質的にはイマイチの感があった。まあ、いくらSACDが超高音質だからといっても、リマスタリングが上手くなかったり、そもそも、マスターテープの状態が悪かったり、録音状態が悪かったりすれば、当たり前だが、それ以上の音にはならないのだ。以前にもちょっと書いたと思うが、例えば『危機』の場合なら、冒頭のボコボコというノイズや音像が左右にぶれる現象なんかは2001年リマスターにも存在するが、2003年リマスター(RHINO)には存在しない。マルチマザーに遡って手を入れていないのであれば、マスターテープに違いがあると考えられる。70年代頃は、レコードが全世界一斉に発売されることはなく、オリジナルのマスターをコピーしたものが各国のレコード会社に送られ、独自にカッティングが施されたりしていたので、こういった音の違いはよくあった。高音質を謳うレコードには、原盤を輸入したり、直接マスターテープを借り受けたりして製作されたものもあった。また、カッティングの技量によっても音質は大きく左右されたのが現実で、溝同士が接近しすぎて針飛びを起こしたり、レベルがオーバーしてノイズが発生したり、逆にレベルが極端に小さかったり、そういうのは各国ごとに、あったり無かったりした。したがって、CD化の際に一番重要なのは、そのマスターテープの出処であったり、状態であったりするわけで、「オリジナルマスターをついに発見!」なんてのがリイシューの際の一番のウリになるわけだ。



さて本題。このイエスの『サード・アルバム』は『海洋地形学の物語』と同じく、知ってはいるが持ってないシリーズの1枚である。ただ、このアルバム、知ってはいる、のは曲だけで、オリジナルを聴いたことが無かった。なぜ曲だけなら知っているのかというと、これらの曲は2曲を除いて、全てライブアルバムの『イエスソングス』に収録されていたからで、こっちはアルバム(LP)を所有していたため、耳タコだった。しかし、再現性の高さに定評があった彼らの演奏も、やはりライブとなれば大なり小なり違いはあって、もちろん、アドリブなんかも入れてくるわけだ。だが、ここでの一番重要な点は、メンバーに違いがあるという事だろう。まず、『サード・アルバム』ではドラマーがビル・ブラッフォードだが、『イエスソングス』ではアラン・ホワイトだ(一部ブラッフォードの演奏も収録)。そして、キーボードは前者がトニー・ケイ、後者がリック・ウェイクマンとなる。特にこのキーボードの交代劇は重要で、言うまでもなく、リックの存在無くしてイエスサウンドは語れないくらい、彼はイエスにとって特別大きな存在だった。定説では、トニーはハモンドの音に固執しており、また、右手でしか弾けなかった(左はコードだけという意味か?)ため、クビにしたらしい。イエスの大看板であるキーボードサウンドはやはりリックと共にもたらされたものだった。実際にこのアルバムのキーボードはお世辞にも上手いとは言えないし、シンセの音はもちろん入っていないので、例えば「スターシップ・トゥルーパー」なんか、あの特有の煌びやかな派手さが全くない。キーボードはハモンドと生ピアノでが主体で、ほぼ全てでバッキングに回っているのだ。実は、このアルバムで初めてスティーブ・ハウが加入し、一般的にはこのアルバムからイエスプログレバンドになったと言われている(以前はサイケとかアートロック)。だからこのアルバムのオリジナル・タイトルが『The Yes Album』というのも十分うなずける。


見開きジャケットなんだが、何故かセンターに超特大のトニー・ケイがレイアウト。意味がよく判らんなあw

エスのファンでもこのアルバムを所有している人は少なそうだが、言うまでもなく名曲揃いである。ただし、ド派手なキーボードやアレンジを期待すると肩透かしを食らう。ここではあくまでもバッキング主体のおとなしいそれがあるだけだ。まあ、苦行とまではいわないが、それもまた、趣があってよろしい、と思えるのはファンだけなのかもしれない。

ウイスキーに合うアルバム No.14 - ジュリアン・レノン 『フォトグラフ・スマイル』(1998)

インプット-アウトプットという言葉がある。優れたものを生み出すためには、優れたものを吸収する必要があるとう意味なんだが、僕等バンドマンは、プロ、アマに限らず、優れた音楽、或いはそれに付随するアート等の様々な事象を咀嚼・吸収して、新しい何かを生み出している。自分の場合、ビートルズの血を直接輸血されたようなものなんだが、だからといって、必ずしも同じような何かを生み出せるとは限らない。そこには、途切れる事のない情熱と、ある程度のポテンシャルが必要だからだ。さて、世の中には、このポテンシャル=本物の血を受け継いだ人間が少なからずいるわけだが、逆に、そのポテンシャルを十分生かしきれない場合も多々ある。
ジョン・レノンは、その死後(特にヨーコのせいで)殉教者みたいな扱いになってしまったけれど、個人的には稀代のロッカーという認識でしかない。そりゃ、言うまでもなく天才だけどさ、あくまでも、ロックンローラーとして位置付けたいのだ。だから、あんまり血の事は言いたくはないんだけれど、ただ、冒頭でどうしても書いておきたかったのは、このアルバムを聴いた瞬間、どうしても血を意識せずにはいられないほどの衝撃を受けたという事なんだ。

ジュリアン・レノン『フォトグラフ・スマイル』"PHOTOGRAPH SMILE"(1998)。鉛色の暗雲が立ち込める泣き出しそうな空と、襟元を伝って入り込んでくる北風に思わず首をすくめ、それでも前に向かって歩いていく、そんなアルバムだ。けれども、何か心が休まるのは、そこにジョンの影を感じるからで、もちろん、ジュリアン・レノンというアーティストにとっては不幸なの事なのかもしれないけど、それは、本人が、ジョンの子として生まれた時からずっと背負い、葛藤してきた事で、それに対し、真正面から向き合った時に生まれたのがこのアルバムなんだと思う。
このアルバムはアイラのモルト辺りを甞めながら聴くのが最高だと思う。
01.「Day After Day」。1曲目から、ジョンに生き写しの歌声に思わず涙腺が緩む。そして、全編に亘るビートルズ的(ジョージ・マーティン的)なアレンジに頭がクラクラする。

05.「I Don't Wanna Know」は初期ビートルズを髣髴とさせる曲で、世間的にジョンの息子としてしか評価されない彼の屈折したひとつの回答なのかもしれない。あぁ、そうだよ、こんなの朝飯前さと言っている様だ。このPVはパロディ、というよりもそれ以上に脱線していてるが、なんとなく、単なるアイロニーや悪ふざけとして片付ける事が出来ない。

11.「And She Cries」。彼はデミニッシュ系のコードをよく使うんだけど、それが、何やらジョージの曲っぽく聴こえてしまう。もちろん、ジョージの様に声域の狭さをカバーするためってものじゃなく、なんとなく手癖ってかんじではあるんだけど、そこに極上のコーラスやら、スライドギターやらがかぶさって来ると、ジョージになっちゃう。彼がその辺りも十分吸収しているのかは判らないけど、少なくとも音楽を生業として選んだのだから、その可能性はあるだろう。

このアルバムの日本盤にはボーナストラックが2曲追加されていて、そのうちの1曲が 15.「Don't Let Me Down」 だ。タイトルはそのものズバリの真っ向勝負だけど、曲調はスローバラードで、そして、打ちのめされそうになる。

そして、もう1曲がラストとなる、16.「I Need You」。ちょっとジョージの「Something」の様ではあるが、救われる。動画が見つからなかったので、今回紹介した4曲が気になった方は是非アルバムを手に入れてほしい。

彼が実際にジョンに会ったのは、人生で数回だったらしいが、その時でさえ、ジョンは畏れの対象であったという。彼は最後まで父の愛情を受ける事はなかったのだ。その父と同じ道を選んだ理由は判らないが、その資質を決して上手くコントロールして来たとは思えない。それは、偉大なる父を持った子の宿命の様なものかもしれない。なにしろ、このアルバムを聴くにしたって、ジョンの顔が思い浮かばないというわけには行かないのだから。

そうして、僕は、37年前に凶弾に斃れたあの日の、新聞の見出しを思い浮かべる。世界が震えたのだ、心の底から。