初音ミクとその人格らしきもの

先日、アメリカのLAで行われたAnimeExpo2011に於ける初音ミクのコンサート(MIKUNOPOLIS in LA)は、国内外でも大きな話題となり、今更ながらその人気に驚いた方も多かったはずだ。しかし正直なところ、例えば、YouTubeに転載させて頂いたボカロ作品に対して、外国の方からの一番多いコメントは未だに「これ何てアニメ?」なのだ。 世界に名を轟かせるためには何と時間のかかることか!



今回のコンサート開催の切欠となったのは、恐らくUS TOYOTAの(カローラの)キャラクターとして初音ミクが使われたことによるものだと思うが、しかし、US TOYOTAのWeb上で公開された初音ミクは、多くのボカロファンの思い描くそれとは大きく異なっていた。こういったキャラクター設定に限らず、日本で人気が出たものをアメリカで商業的に広めようとするする場合、必ずといっていいほどアメリカのショウビズ的な手法に則って改変が行われてしまうのだが、例えば、RPGのFF(Final Fantasy)は、アメリカでの発売当初、中間色を多用した日本的なグラフィックはウケないと言われていた。しかし、実際にはまさに、その部分がウケたのであって、改変しないことが逆に日本のグラフィックを世界に知らしめる結果となったわけだ。今回のミクにしても、アホ可愛い子であるミクがウケているのであって、マッチョに進化したミクには強烈な違和感を感じずにはいられなかった。この改変はあちらのヲタクの逆鱗にも触れたようで、曰く、あんなのミクじゃない。さすがこれではまずいと思ったのか、現在Ver.04まで進化し、よりポップなミクへと変貌を遂げているようですw。


US TOYOTAのWebサイト

…だが、しかし、このUS TOYOTA版のミクを見ていて思ったのだが、これらの複数の初音ミクもまた公式だとするなら、じゃあ、あのステージ上で歌い踊っているミクは何者なんだろう、と。いや、もちろん、それはセガの開発チームが作ったミクであり、基本的にはKEIさんの描いたイラストが下敷きになっているのは十分承知している。しかし、ステージ上での自己紹介の際、「はつねみくで〜す」と言い放ったあのアホっぽいミクは誰が考えたのだろう? 会場を埋め尽くしたネギ型サイリューム。そもそも、そのネギを呆けた顔して振っていたあの2頭身のミクは? そして、最初に縞パンを穿かせたのは一体誰だ?(注意:縞パン派以外にも純白派等、多くの派閥が存在しますw)…と、まあ考えて行くうちに、そもそもは開発元のクリプトン・フューチャーが"初音ミク"というキャラクターの2次使用を認めたから、という、その原点に辿り着く訳だ。『初音ミクの消失』等の作品で名高いcosMo@暴走Pの作品『ウタハコ://H』にこんな一節がある…「パラレルな世界 無数のボクとマスター」。そう、結局は、曲に関わった人(作詞、作曲、編曲、イラスト、MMD、動画その他諸々)の数だけ、初音ミクという人格らしきものが存在しているのだ。もしも、それらの集合体を"初音ミク"と呼ぶのであれば、これはもう、人類、いや、初音ミク補完化計画か、はたまた、ホモ・ゲシュタルトならぬミク・ゲシュタルトとでも呼ぶしかない。ただ、あのステージのパネルの中で、自由自在に息も切らさずに歌い踊る彼女を見ていて、ふと感じたのは、一見自由のようでいて、結局はあのパネルの中からは永久に飛び出すことが出来ないのだという2.5次元の残酷さだ。その時、私は、かつて、あの広大な宇宙の中で一人もがき苦しんでいた小惑星探査機「はやぶさ」に思いを重ねた。命無きものがまるで命を得たかのように振る舞い、その命を小惑星の塵と引き換えに燃やし尽くし地球へと帰還した彼女(彼)の事だ。詰まる所、そういった擬人化こそがヲタクの本質であると結論付けるのはいささか乱暴すぎるだろうか?
あの日、あのステージに立っていた、初音ミクという人格らしきものを纏った3Dフォログラムは、客席で振られるたくさんのネギ型サイリュームの光を見ながら、一体何を思っていたのだろうか?