腕時計の話

先日、腕時計のバンドを交換した。
最近では、ケータイの普及と供に腕時計をする人がかなり減ってきているそうだが、自分の場合、長年身に着けていたせいか、今更外して外出しようという気が起きない。時間をすぐに確認できる状態というのは、常に少し先の計画を立てて行動できるので、何かと安心感があるのだ。人によっては、装飾品としての価値もあるのだろうが、それをステータスシンボルとして身に着ける気も無いし、そういったステータスは自分には要らない。ただ、人生に一度の高級時計を一生使い続けるというのはもちろん素晴らしい事である。
さて、自分の今使っている腕時計は、20年以上前に購入したもので、当時、人気があった(かどうかは今でもよく判らないが)フランスの詩人ジャン・コクトーモデルだ。もちろん、カジュアルタイプなので、価格も三千円程度の安物だ。一度、多機能型スポーツウォッチに変えたのだが、電池交換がメーカー預かりで、しかも交換料金が、あと数千円出すと新品が買える程高い、消費型経済の権化みたいな代物で、もちろん電池交換はせず、今の時計に戻した。それ以来、浮気もせずにこの安物の時計を使い続けている。使い続けていると情が湧くし、時間以外の事も教えてくれるようになる。
あれは、数年前の事。当時母方の伯父が危篤状態にあり、あと何日持つかという、ただ死を待つのみといった状態にあった。そして、たまたま洗車をしていた時の事。その、コクトーの腕時計のバンドが、突然"バチン"と音を立てて切れてしまったのだ! しかも、弱くなったバンドの穴とか、付け根とか、そういった場所ではなく、丁度真ん中辺りで切れたのだ。それから小一時間程して、伯母から電話があった。伯父が亡くなったと…。
まあ、もちろんこれは偶然だし、私は霊的なものはこれっぽっちも信じてはいない。しかし、偶然にしろ何にしろ、これは事実だ。ならば、その事実に何らかの意味を持たせることは間違いではない。この腕時計を見るたびに伯父の事を思い出すのであれば、この時計にはそれなりの意味があったのだ。だから、裏蓋や竜頭のメッキが剥げようと、バンドが何度切れようと、これから先も使い続けて行くのだろう。


フランスの詩人であり偉大なる芸術家、ジャン・コクトーのモデル。オルフェと竪琴が描かれている。


こちらは、友人からプレゼントで頂いた壁掛け時計。猫がかわいい。