松田聖子 『Candy』 のSACD/CD ハイブリッド盤を聴く

タイミングが悪いとはこの事で、松田聖子の80年代のアルバムを当時のアルバム発売日に合わせて、順次新しいCD(Blu-spec CD2規格盤)で買い直して行こうと思い立ったのが去年の秋。『風立ちぬ』『Pinepple』と来て、お次は『Candy』という段になって、なんとSACD盤の発売がアナウンスされた。このSACDは音楽誌「Stereo Sound」とソニーミュージックとの共同プロジェクトで、発売はStereo Soundの独占となり、ソニーの直販にもAmazon他の大手通販にも流通しない。この前書いたラジのリイシュー盤もブリッジからの通販のみで、ちょいとばかり首を傾げたが、今回は松田聖子というビッグネームにもかかわらず、完全にオーディオマニア向けの企画、販売ということで、こちらは驚きを禁じえない。そもそも、オーディオに関心の無い人は、この松田聖子SACD発売というビッグニュースにすら辿り着けないのでは無いだろうか? もちろん、ソニーからしてみれば、2009年発売のBlue-spec CDと、2013年発売のBlu-spec CD2と連続してリイシューされたので、ここに来て一般向けのSACD盤リイシュー企画は、さすがに通せなかったのかもしれない。海外でも、大物アーティストの名盤は様々な種類の規格が乱立しており、例えば、Yesの『危機』なんて、通常のCD盤以外に、HDCD盤、DVDオーディオ盤、Blu-rayオーディオ盤、そしてSACD盤と、なんと5種類ものタイプが存在する。あまりにも節操がなさ過ぎるというか、誰がどう考えても、真っ当な商売だとは思えない。
兎にも角にも、現在手持ちのSACD盤が少ない事もあって、迷わずにこのブツを注文。先日無事に到着したという次第。今回はこのSACD盤のレポートとなる。



まず、予備知識として知っておかなければならない事がひとつある。この『Candy』というアルバムは厳密には2種類の音源が存在している。ただし、2種類というのは 05.「プルージュの鐘」と09.「黄色いカーディガン」の2曲で、LPの初回プレス盤とそれ以降にプレスされた盤とでは、違う音源が収録されている。05.はヴォーカルの差し替え(きっちり音節を区切らず、す〜っと伸ばした様な歌い方で、ビブラートを多用している)、09.はオケの差し替え(別ミックス)である。いずれも細野晴臣提供の楽曲である。当時の細野は、恐らく分刻みのスケジュールをこなしていたと思われるので、実際に彼がどこまでレコーディングに関わっていたのかを窺い知る事は出来ないが、何らかの手違いによりボツテイクが使用されてしまったとか、或いは、完成品を聴くまでチェックが出来なかったとか、そんな理由かもしれない。この初回プレスの音源は、以降どの商品にも一度も収録されておらず、今では貴重な音源となっている。とはいうものの、当時の彼女の人気からすれば、相当数の初回プレス盤が市場に出回っているわけで、中古店などで容易く手に入れる事が可能だろう。ちなみに、初回プレス盤のマトリクス番号は、A面=28AH-1494A1とB面=28AH-1494B1となっている。実は、今回のSACD化にあたり、この音源に対する淡い期待もあったのだが、やはり従来のオリジナル・アナログマスターと同じものが使用されており、初回プレス音源は使用されていない。


マトリクス番号28AH-1494A1の初回プレス盤

では本題に入ろう。今回のSACD化プロジェクトに際しては、オリジナルのマスター・テープの保存状態が良好だったため、アナログマスターから最低限のイコライジングを施したのみで直接DSD変換されている。また、ハイブリッド仕様のため、CDに収録されたものは、同音源よりPCM変換されたものが使用されており、2013年に発売されたBlu-spec CD2仕様のCDに収録されたものとは違う、新しいリマスター音源である。従って、従来のCD作品を所有していても損は無い。ハイブリッド仕様なのでSACD再生機を所持していなくてもこちらの新たなCDサイドは再生可能だからだ。
前述の通り、各曲同士の音の摺り合わせの様な作業は一切行われておらず、従って、02.「四月のラブレター」及び、06.「Rock’n’roll Good-bye」の大滝詠一作品(吉田保)と、その他の作品とでは音の違いが顕著であり、この辺り、別の意味での聴き所でもある。
ジャケットの作りは、いわゆるデジパック仕様で、ペラジャケにプラのトレイを貼り付けただけ。表面にはコーティングが施されているが、オリジナルのアナログ盤がダブルジャケット(見開き)だったので、当然内ジャケットの写真はオミットされており、今回のこの作りでは物足りなさが残る。ブックレットも歌詞と最低限のクレジットのみで従来のCD作品との差は無いが、別紙で「SACD PRODUCTION NOTE」なるものが付属しており、こちらはオーディオマニア向けの解説書となっている。


帯と盤面には「SACD」と「Stereo Sound」のロゴが入っている。

さて、実際に再生してみよう。この頃の松田聖子は喉を酷使したため、徐々に掠れた声になって、アルバム『風立ちぬ』の頃にはそれ以前の声とかなり印象が変わってきてしまった。しかし、この少しばかり掠れた声は非常に魅力的で、ファンの間ではいつしか"キャンディ・ボイス"と呼ばれるようになった。そして、このキャンディ・ボイスの魅力が遺憾なく無く発揮されているのが、この『Candy』の頃である。今回のSACDに一番期待しているのは、このキャンディ・ボイスがどう再現されるかという点だ。そんな心配もよそに、01.「星空のドライブ」ではいきなりキャンディ・ボイス全開でノックアウトされる。聴き所は何といっても、0:54「はは〜ん」の部分だw ここで多くの聖子ファンは身悶えする。キャンディ・ボイスの掠れた高音部分、特に、彼女独特のしゃくりあげる歌唱部分はアナログ盤に匹敵する程で、従来のCDでは完全に潰れてしまい表現し切れなかった次元だと思う。02.「四月のラブレター」は大滝作品で、大量のリバーブの為いきなり世界が変わってしまう。同じアルバム内にこれだけ音の違う楽曲が同居しているのも珍しい。この作品は童謡『やぎさんゆうびん』に引っ掛けており、最後の方で山羊がメェェェと鳴く。確か大滝自身がこの部分に言及していたが、まあ、返事を書いたが食べられてしまったとか、そんなオチだったかな? とにかく、この"メェェェ"の部分が重要で、当時から霊の声が聞こえる、なんて言われていたが、CDではそんな微妙な表現は出てこない出来だったが、今回はさすがにいい山羊だ。04.「モッキンバード」では冒頭で鳥の鳴き声のSEが入っていて、この部分に彼女の声のみが乗ってくるのだが、従来CDではやはりくぐもった印象を受けていたがSACDでは鳥の声と彼女の声がはっきりと分離して聞こえる。また、アナログ盤ではどうしてもトレースノイズ(針音)に邪魔されていた部分でもある(まあ、それはそれで味があるのだが)。さて、ここからはアナログ盤でのB面に入る。06.「Rock’n’roll Good-bye」は大滝サウンド全開で様々なSEがこれでもかとてんこ盛りだ。最後のタムの音もいい。ファンの間では、アルバム『風立ちぬ』から大滝とは関係の無いシングル曲『白いパラソル』を削って、このアルバムの楽曲02.06.を追加するといいなんて言われたものだが、とりあえずSACD化されたこの2曲を聴くとそんな気にもなってしまう。『風立ちぬ』のSACDは売り切れのため注文不可だったが是非購入せねばと思った次第。08.「野ばらのエチュード」はサビ頭で始まるが、"愛を見つーめて"の"つー"の高音部分。この辺りはアナログ盤に匹敵する再生能力で、この高音が頭骨の天辺あたりから突き刺さってくるんだが、これはCDでは無理だ。ご存知の様にSACDとは人間の可聴範囲外(耳で聴き取れる以外)の音が収録されていて、この耳で聴き取れない音は主に体で聴き取っていると言われている。空気を伝って低音が腹に響いたり高音が頭蓋骨に響く事によって聴こえる音があるということ。ヘッドフォンじゃダメなんだよ、坊や。さて、最後は10.「真冬の恋人たち」。松田聖子屈指のバラードで、大村雅朗作曲による名曲だ。彼女と自分だけの世界に浸っていると、突然入り込んでくる見知らぬの男の声(これは杉真理)。最初にこの曲を聴いた時、この男に敵意を抱いたりしたものだが、この声はオーディオ的には大きな指標となる。敵意を抱くほどのいい声で再生されれば合格だ。
全て楽曲の再生が終わり、そして、私は落涙する。


当時のアルバム初回盤と今回購入したSACD盤。ジャケット写真の脚の開き具合が当時話題となった。

最後に、このSACDはすぐにでも一般向けに販売すべきだ。これは一部のオーディオ・マニアだけに独占させておく様な作品ではないのだから、このアルバムの持つ音の素晴らしさを、全ての人に聴いて貰える状況にすべきである。多少値が張っても確実に金を落としてくれる世代に向けて、ピンポイントで商売をした方が無駄が出なくていいとでも思っているのかもしれないが、全ての世代に対してきちんとした形で作品を提供する事はレコード会社にとっての社会的責務である。この辺りの考えが欠落していると、どんなに価値のある作品であっても、あっというまに地層に埋もれてしまうのだ。

販売は「Stereo Sound」のみとなる。詳しくはこちら