『エッセイ集 微熱少年』松本隆

立東舎文庫。何やら聞きなれない文庫名だが、立東をリットーと書けば納得するだろう。リットーミュージックが今年設立した文庫レーベルだ。その第一弾のひとつとして刊行されたのが、この『エッセイ集 微熱少年』だ。このエッセイ集には初出の一覧等のデータが一切記載されていないので、各エッセイの正式な発表年月日は不明だが、あとがきの日付が"昭和50年(1975年)6月15日"となっている事と、作品内に登場する年月日等から推測すると、はっぴぃえんど解散直後の1972年暮れから、その後の3年弱の期間にあたるようだ。



本書の前半は、氏の歌詞に対する様々な思いを、様々なアプローチで記述している。内容は例えば、消費される歌謡曲に対する歌詞の持つ意味や、ロックとフォーク、あるいは歌謡曲との間で揺れる作詞家としての立ち位置が語られていたりする。それは、非常に詞的であったり、あるいは、現実的な表現であったりと様々だ。伝説的な言葉遊び、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」のネタばらしもある。
そうこう読み進めていくうちに、後半も過ぎたころ、本書は突如としてソウルに特化したエッセイ集へと変貌を遂げる。特化というか、もうこれは専門書といってもいいほどだ。まずはいきなり、ソウルのお気に入りのアルバムに対する詳細な解説となる。紹介されているのは16枚のアルバムで、特にカーティス・メイフィールドがお気に入りだった様だが、もしかするとこのエッセイが書かれた時期と、カーティスの絶頂期がたまたま一致していたのかもしれない。だとすれば、当時、ほぼリアルタイムで書かれたインプレッションをそのまま読むことができるというわけだ。



当時の松本の仕事は作詞の他に、プロデュース業があったのだが、それは岡林信康あがた森魚といったフォーク系アーティストのそれが有名だ。しかし、もう少し詳しい人なら、ここにスリー・ディグリーズの「ミッドナイト・トレイン」を思い浮かべることができるだろう。そして、この曲をプロデュースするに至った経緯やら、彼女たちとのレコーディングの思いでやらが事細かに語られており、今となっては貴重なデータであろう。



さて、本書も終わりに近づくと、話はいよいよ専門的になり、そちら方面に明るくない自分にとっては、理解の範疇をはるかに超えた解説文となる。例えば、フィリー・ソウルの成り立ちとその考察等々…。ただ、最後に、彼の持つソウルのイメージというのが、都市であるという部分で、ようやく共通の着地点を見出すことができる。氏は、原体験のない、例えば、カントリーのような音楽は実体のないものとして捉えるようになり、逆に、ソウルが持つ都市としてのサウンドに、より親近感を覚えるようになったのだという。また、ソウルは各都市によって独自の色を持つ存在(メンフィス、LA、デトロイト、シカゴ、ニューヨーク、フィラデルフィア)であるが、日本では東京という都市でしか発生しない単色のサウンドに塗りこめられているという。もちろんこれは、75年頃の考察であり、現在の状況を当て嵌めることはできない。現在では、ネットを中心にあらゆる場所から発信できるようになったのは事実だが、逆に東京という都市の色が薄れてしまったのかもしれない。
さて、最後になったが、このエッセイ集は、作詞家、プロデューサーからだけのアプローチではない。実は、しっかりとドラマーの目線で書かれていたりもする。それは、ドラマーの自分が読めば大納得で、ただただ頷くばかりなんだが、それをドラマー以外の人間が読んでも、思わず膝を打つとは思えないんだな。だって、「ビートには針の穴の様なツボがあって、それよりも千分の一秒前でも後でもダメ」なんて、共感してくれる人は少なそうだもの。