ロバート・カーソン『46年目の光』 から読み解く、目に映るものの真実 その3

マイク・メイは視覚を取り戻したが、映像を正しく理解する為のニューロンが機能していなかった。彼が目に映るものを理解するのは、外国語を覚えたばかりの大人が、聞こえてくる全ての会話(外国語)を、いちいち翻訳しているという行為に似ている。目に映るものが次々と変化していけば、その翻訳は追いつく事が出来ず、短時間でも疲労困憊してしまうというわけだ。ただし、全てのものを翻訳しなければ正しく映像化されないという事ではない。例えば、リビングのTVの前にテーブルがあり、その上に小さな長方形の箱型の物体がある。彼の目には、これがTVのリモコンとして正しく映し出される。それは、ニューロンが機能していなくても、その物体が、「TVの前」の「テーブルの上」に置いてある「小さな箱」といった手掛かりがあるからで、それは、盲目時代から蓄積されていた知識である。これにより、彼の目にはそれがTVのリモコンとして映るのである。翻訳は要らないのだ。しかし、このリモコンがTVとは全く関係の無い場所、例えば、トイレに置いてあったとしよう。この場合、彼の目にはこの箱型の物体が何であるのかを理解する事はできない。しかし、それを手で触れば、確実にリモコンとしての映像が映し出されるのである。(これが、具体的にどの様に映し出されるのかは、我々の感覚上での表現は不可能だろう。)彼にとって、視覚+手掛かり+触る、という一連の作業により、確実に映像化されるのである。
しかし、手で触る、という行動でも理解できないものは沢山ある。例えば、同じ形状の物体が沢山あった場合。量販店のケース売り等は、中身が何であるのかを理解するのは至難の業である。その為、彼はそれらをデータ化した。もちろん頭の中でだが。つまり、この列の、この辺りにある、これくらいの大きさの、赤い箱、は、コーラのケースである、といった具合に、それらをいちいち記憶したのである。つまり、それらデータを瞬時に呼び出せるよう訓練した。その結果、映像が即座に映し出されるようになったのだという。彼は、このデータを拡張、増強する事によって、ニューロンと同じ様な役割を、脳に対して新たに覚えさせたのである。

ところで、マイク・メイの視覚に対しての研究過程に於いて、彼に"錯視"(いわゆる"目の錯覚")の図形や画像を見せたところ、何と、一度も騙される事がなかったのだという。
例えば、有名な図1.の様な図形。


図1.
正常な視覚の持ち主にとっては、斜めに描かれた線は、非並行線に見えるはずだ。しかし、彼にはこれが、きちんとした平行線に見える。図2.では更にガイドとなるグリッドを表示させているが、それでも普通の人には、相変わらずこれが非平行線に見えてしまう。


図2.
つまり、私達が見ている映像は事実であるが、真実ではない。しかし、マイク・メイの目に映っているものは、事実であり、かつ、真実であるのだ! 我々が、常にその様な虚像の中で生活しているのは事実である。身近なものを例にとれば、影付きの文字がある。ただ影をつけただけなのに、字が凹んで見えたり、飛び出て見えたりする。また、道路上にある注意を喚起するための塗り分けなんかもそうだ。道路が凹凸に見えたり、前方が狭く見えたりするのだ。もちろん、これは、私達が間違った判断を下しているのである。

マイク・メイはその努力により、(全てではないが)視覚を正しく映像化することに成功した。その部分にのみ焦点を当てれば、本書は単なる自己啓発本で終わってしまう。だが、本書の凄いところは、視覚、映像についての、根本的な部分が、医学的、心理学的、またはそれに付随する全ての学術的な観点に立って構成されていたという点である。もしも、これらの記述が無ければ、本書を購入するには至らなかったはずである。本書のおかげで、新たなものの見方が構築された事が一番の収穫であったといえよう。(この項、終わり)

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生