夏休みの読書感想文

夏休みの宿題を毎日コツコツと片付けて、休み中に終わらせる奴は物凄く偉いと思う。だが、休みの序盤、つまり7月中に全てを終わらせてしまうような奴は、逆に鼻持ちならない。もちろん、自分はそのどちらでもなく、夏休み中に終わらないタイプの人間だった。そして、大抵一番最後に残ってしまうのが、読書感想文だった。それにしても、読書感想文てのは厄介だ。なにしろ、手を抜くにしたって本そのものはどうしたって読まなきゃならないんだから。中学時代の友人で、あらすじを丸写ししただけのものを読書感想文として提出したつわものもいたがw 後でこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
あれは…中1の夏休みだと思ったが、案の定読書感想文だけが残ってしまった8月31日。何かめぼしい読み物はないかと家の本棚を物色していた。当時、家のリビングには天井まで届くでかい書棚が5本あったのだが、そこに入りきれない本も沢山有って、それは床にうずたかく積まれていた。廊下や他の部屋も同じ様な有様で、いつ床が抜けてもおかしくない状況だった。更に、書籍専用の4畳半くらいの物置があって、そこにはおそらく死ぬまで開かれないであろう雑誌の類が詰め込まれた段ボール箱が、壁全面に積み上げられていた。所有者である父からは、基本的に家の全ての本は(例えそれがどんなにエロい本であっても)自由に読んで構わないと言われていたが、それは逆に、読め、という命令に近い本人の願望だったのかもしれない。ただ、自分は熱烈な読書家にはならず、ちょっとばかり本が好きな人間にしかならなかったけど。
リビングの書棚には国内外の作家による名作文庫のようなものが一通り揃っており、他にも谷崎や漱石や芥川なんかの(偉く値の張る)大全集みたいなものもあったので、その中から手っ取り早く読めそうな、そう、短編の様なものを探していた。そんな時、これはお手軽そうだな、と思える作品が目に留まった。芥川龍之介「トロッコ」。

主人公は8歳の少年。トロッコに乗りたい一心で人の良さそうな二人の工夫に声を掛け、一緒に台車を押したり乗せてもらったりしているうちに、ずいぶんと遠くまで来てしまう。早く帰りたい少年だが、工夫は途中の茶屋で休憩なんぞを取り、ようやく戻ってきたと思ったら、開口一番こう告げる。俺等は今日は向こうで泊まりだから、お前も早く帰れ、親も心配するぞ…と。本作は、本当に短い作品で、あっという間に読み終わってしまうのだが、自分の読書人生の中で五指に入る名作だと思う。とにかく、この急展開。てっきり帰りが保証されていると思っていたのに、いきなり突き放されたその恐怖を思うと冷汗が出てくる。この年齢の子供にとって、家から遠くはなれた未知の土地で置いていかれる事がどれ程の恐怖であるか。それは自分が子供の頃常に思っていた事で、例えば、両親と電車で都心へ出かけると、車両の扉の上の方に貼ってあるあの路線図を見ただけで、それを頼りに家に帰れる大人はなんて凄いんだろうといつも思っていた。逆に、自分がもし都心で親とはぐれたら、それはイコール"死"に近い恐怖だと感じていた。それは、遊びにかまけて日が暮れるまで家に帰らないと、人攫いに合う、だとか、警察に連れて行かれる(子供にとっては、ドロボーと警察が同じ様に恐怖であったw)、とか、そういう洗脳が成されていたからで、もし、夜の都心にひとり置いて行かれたらやはり、死ぬ、と思っていたはずだ。とにかく、主人公が味わったであろうその恐怖を思うと胸が締め付けられる。まあ、話としてはそれだけなんだが、物語の最初の方で「トロッコを押すのは楽しい、ずっとこうしていたい」とか「乗るのはもっと楽しい」みたいな記述があって、それがあの工夫の言葉で全てひっくり返されてしまうわけだ。主人公はこの時、これから先の人生を思いっきり凝縮した様な体験を、僅か一日足らずで経験してしまったのだろう。
芥川は子供向け、或いは大人も子供も楽しめるような作品を沢山書いているのだが、本作もそういった類のものだろう。この作品に深く感銘を受けた中学男子は、あらん限りの賛辞を持ってこの読書感想文を書き上げたが、国語教師の評価はかなり低かった。まあ、いいよ。お前はもう大人になってしまったから、この子供の心を忘れてしまったんだろ。だからクソなんだよ、と心の中で吐き捨てたのは、もう40年くらい前の話。今でも夏も終わりにさしかかるとこの小説を思い出すのだ。

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