Requiem for 3.11

あの未曾有の大災害、東日本大震災から今日で1年を迎えた。だが、被災地の復興は遅々として進まず、原発の今後も含め、問題は山積したままだ。それにしても、ここの所の不可解、いや、不快に思う事の多さよ。復興の為の第一歩であるはずの瓦礫の撤去、その受け入れに多くの地方自治体が難色を示している事の不甲斐無さ。一体、日本とはなんぞや? その瓦礫は自分の国のものではないのか? 政府は国民の顔色ばかり窺って物事を決めるのではなく、強権発動も辞さない覚悟で対処すべきだ。
そして、電力問題である。しかし、東京電力のトップ及び一部社員の、あのエリート意識というか、肥大化した特権階級意識というか、いや、それを通り越した選民思想の様なものは何とかならないのか? 自分達の既得権益は殆ど手放さず、国民に対し一方的に電気料金の値上げを要求、そして、それが一企業として当然の権利であるのだと主張するに至っては、開いた口が塞がらない。果たして、奴等に愛国心はあるのか? "いっぺん、死んでみる?" 
しかし、その値上げの論拠を無効化するためには、全国民による節電の継続が不可欠だろう。現在、多くのデパートやスーパーは、何事も無かったかの様に、震災前と同じ照明で明る過ぎる程だし、間引きで運転されていたエレベーターは、いつのまにやら全基が稼働中だ! あの夏の日、多くの国民が感じた危機意識を、なぜ減退させるような行動を取るのだろう? 国は国民や企業に対し、再び節電を求めるべきである。そして、我々は、これから先、どの様な生活が人間にとって本当に快適であるのか、その新しいスタイルを考察、構築しなくてはならない。
さて、問題の元凶である福島第一原発。一説によれば、メルトダウンを起こした原発を、廃炉として安全に終息させるには100年掛かるのだと言う(フランスでは、福島と同型の事故を起こしていない原発で30年掛かったそうだ)。石原都知事は、科学とは失敗を繰り返して進歩していくものだ、といった旨の発言をしたが、それは確かに正しい。しかし、原子力だけは何か違う。それは、一度失敗してしまうと、二度と取り返しが付かないからである。放射能が一度拡散してしまえば、人類の手には負えないのだ。そして、今回の事故の教訓とは、原発を今よりも安全な形で推し進めるのではなく、それを止めてしまうという事なのだと思う。それが人類の、文明の敗北だとは思わない。再び、これを凌駕する発明をすればいいだけの話じゃないか!それが、一時的には、一見、退行的に見えたって構わない。命を犠牲にしてまで電力を作り出す事に、何の意味もないのだ。
あらためて、震災で犠牲となった人々のご冥福をお祈りいたします。
2012年3月11日。


今の子供たちが大きくなった時に、飛び越える事の出来ない様な世の中の仕組みを作ってはならない。